中村真さんとは妙な縁がある。僕がまだサラリーマン時代、それこそ20年以上前だが、博多の老舗ジャズライブハウスの「NEW COMBO」に週に1,2回は必ず通っていた時のこと。とあるサックス奏者を聴きに行くと、そのデュオのお相手が真さんだった。それまで名を知らぬピアニストであったが、正直、サックスそっちのけでピアノに釘付けになった。
さっそくネットでその素性を調べる。大阪出身。歳は僕より一つ上。綾戸智恵さんなど著名な演奏家とも多数共演。ソロを中心に自身のアルバムも数枚リリース。音大を中退後、華々しくプロ活動を展開するも、本人いわく「干される」という状態となり、活動の拠点を東京に移す。その際、大阪から東京まで自転車で野宿をしながら移動、みたいなことが書かれてあった。さらにブログには膨大な文章がすでにあり、音楽に無関係なことも多いが、本業である音楽に関する話は実に示唆に富むものが少なくなかった。
初めて出会って以降、一方的にウォッチしていたのだが、2007年5月、自転車でのソロピアノツアーで九州に来られると聞く。「まこ」というハンドルネームのMixiへ連絡をし、北九州の海岸での野宿にジョインしたいと申し出。真さんからすれば何者かわからぬいちジャズファンからの連絡に驚いたろうが、快く受け入れてくれた。そこでいろんな話をした。自分も真さんのように自転車で仕事をしながら全国を回りたい、などと言っていた。夢を語った。
あれから17年。私ごとだが、自転車で全国を回りながらトークライブの仕事をする、という夢は叶ったし、大好きな海外にもたびたび足を運び、さらにジャズ専門の会社を立ち上げるにも至っている。それなりにプチ成功したかもしれないが、個人的なジンクスとして、なぜか真さんと会うと人生が加速するようなんだ。
2017年の夏頃だったか、突然、真さんから連絡をいただき、東京は中野で飲むことになった。その年、真さんはとても絶不調だったと。そんな状況を脱したく誘われるがままにインドを旅する、そしてよくわからないが除霊を受けたなどと言われ、心身の状態はかなり復活したと。実は僕もその年は割と絶不調で、同じくインドにも行き、除霊を受けたりもしていた。そして僕も復活した。
2023年の2月も、たまたまインドを旅してる時期が同じで、ムンバイの海鮮レストランでワインをご一緒したりした。そんなタイミングに遭うと、思い出したように真さんのアルバムを聴き始める。すると、妙に調子がよくなる。
紹介遅れましたが、QAZZレーベル主催の石田久二、通称Qさんです。真さんのアルバムはもっと早くに出したいとは思っていた。なんせこんだけ不思議な縁があるのだから。しかしだからこそ勢いで出すんじゃなく、時期みたいなのがあると思い、僕にしては珍しく慎重に構えていた。
そして今回、真さんより少しだけ若手のドラムの大村亘さん、ベースの落合康介さんを従えた「大惨事トリオ(第三次トリオなので)」での録音機運と重なり、僕のところで引き受ける流れになったわけだ。
真さんのアルバムを聴くとなぜか調子が良くなる。それはあながち間違いじゃなと思うのは、いわゆるモーツァルト的なイフェクトもあるんじゃないかと思っている。ものの研究によると、モーツァルトはその美しく天真爛漫な音楽や人となりとは対極に、精神面はかなり不安定で、ある種の病的な側面があったと言う。医学的に言えばドーパミンが自然には出ない状態で、であれば今では数々の病名が付くところ。
モーツァルトはまさに自身が生み出す音楽の力で、精神を安定化させる、つまりドーパミンやセロトニンの分泌を助けていたと解釈するのは、ややポエミーに過ぎるだろう。が、なんとなくわかる気もする。実際、モーツァルトは同時代の作曲家、例えばハイドンやサリエリなんかと音楽の様式は同じくするが、どこか憂いを感じさせる。フランスの詩人、アンリ・ゲオンはそんなモーツァルトの特徴を「悲しみ(トリステス)」と称し、とりわけその長調の明るい曲(ニ長調のフルート四重奏曲第一楽章など)に顕著であると言った。
真さんはどうか。まず前提として、真さんは社会不適合者である(もちろん褒めている、自分もそうだから)。サラリーマンは務まるはずないし、音楽家としてもミュージカルやビッグバンドなど、いわゆる手堅い仕事が回ってくることもあまりなさそうで、自ずと個人単位の仕事が中心となる(その意味では企業や商工会議所等からの依頼が10年以上はなくなっている自分とも境遇は重なる)。
だからこそ、普段は埼玉の田舎に住み、農作物を育て、直販し、時に自転車に乗ったり、山に登ったり、インドに行ったり、気が向いた時にツアーに出るみたいな生活が可能となる。そのような自由な生活でないと、真さんの精神は崩壊するだろうし、普段から紙一重なスレスレ状態をなんとか音楽により保たれているのだろう。
しかし奏でられる音楽のなんと美しいことか。たとえば本アルバムの三曲目、ボサノバの名曲で知られる「イパネマの娘」の冒頭、突然、天上の世界に導かれる。いわゆるボサノバ然としたお馴染みのリズムから離れ、しかしかろうじてベースラインに8ビートの痕跡を残す意味で、楽曲の概念を無視しているわけではない。
おそらくビバップからフリーミュージックまでをも極めた真さんや二人だからこそ、制約と逸脱の間を己を見失うことなく浮遊できるのだろう。それを「自由」と言わずして何と言う!
音楽と実生活をリンクさせることは好きじゃないが(おそらく真さんもだろう)、真さんの割と気ままに見える毎日と、浮世人にならない程度の社会性が両立できているのも、「自由」を絶対的根拠とした、地球の引力が「音」となって現れている証拠と言えよう。
僕はQAZZレーベル主催として、すべてのアルバムのライナーを執筆しているのだが、これほど筆が進まないレコードも珍しい。なぜかと言うと、単純に一度プレイを押すと、どうしても聴き入ってしまうから。書きたいことが膨大に出てくるようで、それを言葉にするほど野暮な作業もないと思い直し、結局、一時間が経過してしまうからだ。
真さんはこれまでのレコーディングにおいても、基本的にその時その場で曲目を決め、特に凝ったアレンジを用意することもない。今回も同じようなノリで引き受けられたのだろうが、プロデューサーとして一言でもテーマ性を共有しておきたいと思い、それを「旅」においた。僕も真さんも同じく旅好きって発想だが、まずは10曲ほど、旅にまつわるジャズ曲を僕の方から提案。
そのリストを真さんが「見た」と言う事実だけで今回のコンセプトは成立する、と考えていた。結果、「Samba do Avião(ジェット機のサンバ)」「Maiden Voyage(処女航海)」「Around the World(八十日間世界一周)」は僕の案が採用されたが、それ以外の曲もしっかり旅であり、そもそも何をやっても人生は旅なわけだ。
「旅」をテーマに受け、全体のコンセプトを重ねて真さんはこう表現した。原文のまま。
ジェット機に乗って旅に出た。ものの、しとしと雨が降る。イパネマ海岸で女の子を眺めていたら元気が出てきて、A列車に飛び乗ったのはいいけどはっちゃけすぎてファンタジー。ちょっと落ち着いて酒でも飲みました。人生の深みを考え、この世界一周の旅を締めくくろう。
うん、とても良いと思った。冒頭はボサノバの創始者Antônio Carlos Jobimの作であり、ジェット機のサンバ、元はブラジルの航空会社の依頼で書いた曲のようだ。実際にJobimが機内でこれを書いたかは知らないが、飛行機の中は割とインスピレーションが浮かびやすい気がする。
Erroll GarnerのMistyが生まれたのも機内だって話は有名だ。
2曲目にバラードってのはなんかしっくりくる。古典音楽においても第二楽章は緩徐楽章とも言われ、たいていゆったりしたテンポが置かれる。Here's that Rainy Dayは「こんな雨の日にも」と訳されようが、梅雨のようなジメっとした雨ではなさそう。真さんのピアノからはなぜかいい香りが漂ってくるのだが、さながら英国のガーデンで一人佇む少女の風情。
イパネマの娘。再びJobimの有名な曲だが、こちらを世界に知らしめた『Getz/Gilberto』のイメージからは随分とかけ離れている。僕は真さんのソロピアノ集『さんにんひとり』ですでに聴いていたが、手垢がついたとも言えるこの曲を、ここまで斬新に弾けるものかと驚いたものだ。今回のトリオも共通の世界線にあるが、いったいどうやってるんだろう。言えることは「中村真のピアノ」ってことであり、聴けば聴くほど抜け出せなくなる。なぜだろう。
スイングジャズの代表曲とも言える「A列車」とは、ニューヨークのダウンタウンからハーレムに抜ける地下鉄のことで、かつては危険な路線と認識されていた。1990年代に市長が変わってからニューヨークもすっかり治安のいい街に変わったが、コロナ明けに乗った時はちょっと怖い雰囲気だったかな。
インプロ風に、よく聴けばところどころにA列車っぽさが聞こえつつ、曲名の確証のないままに光速のフォービートに受け継がれる。やがてトーンダウンしたと同時にベースソロが展開されるが、A列車の断片から再び急速なピアノソロを挟み、手探りにテーマのAメロからよく知るブリッジに辿り着き、カタルシスが訪れる。ここで本アルバムのタイトルについて説明したい。
“CATHARSISTROPHE”とは造語であり、大惨事のCATASTROPHEと、解放や浄化を意味すCATHARSISを融合したもの。劇場ではクライマックスにカタストロフィーで混沌へと陥れ、カタルシスで幕を閉じるパターン。つまり破壊と調和。インド風に言うとシバとヴィシュヌ。密教なら不動明王と観音菩薩。その相反する存在があるからこの宇宙が成立する。ブラウマであり大日如来が。
確かにこの世は破壊と調和の連続だ。生まれた瞬間、自呼吸を強いられ、調和の世界から逸脱する。ストレスに満ちた破壊的な状況もやがてまた調和へと収斂し、また新たな破壊へと突き進む。それを成長と呼ぶ。
音楽の進行だってそうだ。単なる調和から一歩進むと、不安定な五度のドミナントを体験し、再び調和へとモーションする。そしてまた新たな一歩を進め、破壊と調和が連続して一つの音楽、つまり宇宙が成立するわけだ。中村真の音楽はその振り幅が実に広く、聴き慣れたスタンダードでさえも、見事な調和の美から始まったと思ったら、とんでもなく不安な世界を体験させられ、しかし最後はまたきちんと説得力ある着地を見せてくれる。気づけば何度も聴いてしまっている。
“CATHARSISTROPHE”とは「破壊調和」と強引に訳したとして、それはイコール「宇宙」でもある。先に、真さんとたまに会うと、なぜか人生が加速する気がすると書いた。きっとそれは思い出したようにスマホに入っているいくつかのアルバムを聴き直すきっかけとなり、結果、自らの内面に破壊と調和が起こり、新たな局面へと誘われるからであろう。
Fantasy in Dはピアニスト、Ceder Waltonの手によるものであり、Jazz Messengers時代に『UGETSU』として発表した一曲が元となっている。UGETSUとは「雨月物語」のことであり、Art Blakeyは「ジャパニーズファンタージ(日本の幻想曲)」とMCしている。キーをD♭からDに変えたゆえに「in D」と改題しただけであろう。60年台風の当時の新しい息吹を感じさせながら、ラストの何かに化かされたように消えゆく様が幻想的だ。
真さんの「酒バラ」はライブでも何度か聴いた気がする。北九州の海岸で初めて会った翌日だか、福岡市までの途中の小屋でライブをした時、偉そうなアマチュアサックス奏者に会ったそうだ。最初から最後まで無礼な態度で、アフターのジャムで「そいつ」が吹き始めたのが酒バラだったと後日聞いた。そのライブの翌日のブログタイトルは「虫みたいな奴」であり、そのコメント欄もにわかに荒れていたのもまた真さんらしいと思い、笑ったものだ。本アルバムの演奏の素晴らしさとは関係ないし、(真さんの正当な言い分を含め)詳細も割愛しているが、虫のエピソードが好きなのでわざわざ書いた。
Hancockの「処女航海」は途中まで完全なるインプロであり、締めくくりに申し訳程度にテーマが登場する。大惨事トリオはインプロを得意とするトリオなので良しとしよう。
僕からのリクエストでもある「八十日間世界一周」は個人的には一番気に入っているかも。ルバートでテーマを奏でた後、ミディアムテンポでゴキゲンなモダンジャズが始まる。意外な気もするが、真さんが初めてジャズに開眼したきっけはOscar Petersonだったそうで、そんな片鱗も覗かせる。しかしどう聴いてもやはり「中村真」であり、一聴してそれが誰なのかを知らしめる音楽家も決して多くはあるまい。
Até Quem Sabeはこの中では僕が唯一知らなかった曲だが、英語だと「Until who knows」の意味、日本語だとどうなるのかな。10曲中、ブラジルの曲が3曲になったが「旅」なんだし、それはそれでいい。ちょっと哀愁ある(サウダージ?)、美しい曲。
ラストはGershwinのI Loves You, Porgy(愛するポギー)をソロで。Keith Jarrett はじめいろんな人がソロでやっている。最初「Loves」は誤植かと思っていたが、You are をYou is と言ったりするような、当時の黒人独特の言い回しとのこと。「私はポギーが好き!」と烏滸がましく自己主張するのではなく、「私ってポギーのことが好きみたいだよ…」みたいなニュアンスか。
そんなまとめをあえて受け継ぐなら、「このアルバムはめっちゃええから聴いてくれ!(ええ=良い)」よりも「これも普通にええと思うからまあ聴いてくれや」みたいな感じで手に取ってくれたらいいかと思う。ただ「普通にええ」ってのは控えめのようでいて、かなり最上級なんですけど。
中村真のピアノはそんな修辞が似合う気もする。
1.Samba do Avião / Antônio Carlos Jobim
2.Here's that Rainy Day / Jimmy Van Heusen
3.Garota de Ipanema / Antônio Carlos Jobim
4.Take the 'A' Train / Billy Strayhorn
5.Fantasy in D / Ceder Walton
6.Days of Wine and Roses / Henry Mancini
7.Maiden Voyage / Herbie Hancock
8.Around the World / Victor Young
9.Até Quem Sabe / João Donato
10.I Loves You, Porgy / George Gershwin
中村真 “大惨事” トリオ
中村真 Piano
落合康介 Bass
大村亘 Drums
石田久二 / 企画
録音・編集/吉川昭仁
調律/狩野真
写真/中村真
装丁/菅原沙耶
Recorded at STUDIO Dede/2024.4.23